――王が死んだ。
振り返るにはあまりにも痛々しく、取り戻すにはあまりにも罪深い。
それでも――日々は、動いてゆく。


≪1・王国の記憶≫

服飾店に勤める少女には憧れの女性が居た。
しかし、あの日の花嫁も、王位を継ぐべき王子も、……彼女のすぐ傍に居たはずの誰かさえ、
今は居ない。

「私が本当に頑張れるなら、――もう、一人だけ安全な場所に居るのは嫌です」
幸せな日常に舞い降りた、消し去ってしまいたい記憶。
それでも、決して忘れたくない想いがあった。

「たくさん……後悔してる。今も、どうして良いかわからない事がある……」
――遠い城。
何故、都合の良い方だけを選べないのか。
待ち受ける困難を覚悟で願いを叶える術を探すしかないのだろうか。

「いいえ。――いいえっ、あの方の言葉に嘘は無かった!」
「……その通りだ。あいつは回復魔法を“知ってる”が、魔法は“使えない”」
「え……?」
「惑わされるな。……お前の国でもな」
少女はようやく悟った。
多くの嘘の中に真実を掴み取る方法は確かに在ったのだと。

「私にはここでしなければならない事がある。今までずっと逃げてきたけど……もう、逃げない。何があっても、進みます」
「なら……私も、進みたい。あなたと一緒に……」
その小さな変化は小さな変化を呼び、やがて大きな革新を呼び覚ます。

「あなたさえ良ければ……あなたの、お友達として」
今、そのために小さな片翼もまた揺らめいた。


≪2・子羊の絶対≫

「すみません……降りますっ」
果たしてこのまま国へ帰って良いのだろうか。
そんな衝動に駆られ、自警団の少女は馬車を降り、一人夕暮れ色の町に戻った。

「どうして……。だって……お前が、気付かないはずない」
「え……?」
「……父さんのとこ、行こ。父さんに……聞いて、貰わないと」
気付けば、少女はその町で出逢った少年の元に駆けていた。
そして、何故か訳知り顔の彼に導かれるままにその魔法研究者の元を訪ねる。

「でも……だからって、あなたが庇ってる人を罪人にする必要もないんですよ」
「……どういう、意味です」
「あなたが信じてる人が何を望み、何を守る為に危険を冒したのか。その理由を、あなたは最後まで信じていて良いんです」
その夜、研究者は柔らかな物腰で落胆する小さな来訪者の背を押した。

「私も――世間一般的には、罪人ですから」
自らの過去を顧みながら、彼は家族を想う。
彼が心から望み、選んだ道――それでも、この世界に残された痛みは純粋な人の想いを奪う。
だから少女は夜の終わりに、ただ一つしかない答えを出した。

「――あなたは、罪人なんかじゃない」
「え……」
「私は知ってます。だって、あなたが教えてくれた。本当の正しさを決めるのは、私の心だと。
だから……私、知ってます。もう、……泣かないで……」
自分の知らない夜の中に数え切れない涙がある。
その事を幼い心は悟り、ようやく訪れた朝と共に迎える別れの瞬間にそう告げたのだ。

「ありがとう……ございます」
夜明けの優しさに救われたのは彼だけではない。
少女もまた同じ想いを胸に、兄姉の待つ国への馬車を待つ。

「ねえ、あなたはお父さん達のために祈ってるの?」
「…………俺、祈ってたか?」
「うーん、どうだろ。でも、何でかな。時々凄く祈ってるように見える」
「そうかもな。じゃ……その苦しみが喜びに変わる事を祈って」
そうして祈ってみせた少年の姿は実に様になっててまるで本当の聖職者のようだった。
痛みと温もりの先に何かを思い出せそうな気がしながらも、少女は再会の約束だけを残す。
そう、彼女はついに少年が同郷者である事に気付けぬままであった。


≪3・新王の片翼≫

「――王になって下さい」
二人は同じ人の帰りを待ち続けていた。
こんなにも近くに居ながらすれ違い続けた年月がある事を、彼らは苦笑するしかない。

「あなたしか、居ません」
だが、今ようやく彼女は答えに辿り着いたのだ。
傷付いた国を導く事が出来るのは彼をおいて他になく、彼の迷いを払う事が出来るのは自分をおいて他になく、その為の猶予を一体誰に与えられていたのかを。

「ようやくわかりました、あの方の意図するべきものが……あの方は、あなたが王としての覚悟を持つまで待っておられた」
「馬鹿な……」
「いいえ。私にはわかります。あなたは王家の中の誰よりもこの国の行く先を憂いてる。城下に趣き、ご自身の目で確かめるほど……この国に生きる人々を愛してる」
彼を王にする事こそ、偉大なる神官に与えられた彼女の最初の仕事であった。
その事実に彼女は気付き、だが、それ以上に深い二人の願いがそこに在る事を見出したのだ。

「気付けたはずなのに知る努力が出来なかった。変わる事を……受け入れられなかった。でも、ずっと知ってました。私が……本当は、どうしたかったのかを。そして今、私は見つけたんです。私が……誰と、何をしていきたいのか。あなたと……何を変えていきたいのかを」
彼女の切なる胸の内は、まだ誰も知らぬ王の心を揺れ動かす。

「もう一度城に戻った時、お前の心がまだ変わってなかったら……お前の想い、受け取ろう」
そして、城下を見守る二人の元に夕暮れ色の鐘が高らかに鳴り響いた時、彼女の願いは明日に繋がる風を叶えた。

「……っ。は、はい……。ありが……ありがと、ざ…………」
「…………。ありがとう」
そうして先に手を差し伸べたのは、その役目を申し出た彼女ではなく彼だった。
……いや、その瞬間。
彼らにとってそれはどちらからともなく与えられるものになったのだろう。
何故なら、玉座は一人で掴む栄光ではなく、二人で聞く羽音を望んだのだから。


≪4・緑樹の感謝≫

「二人はお互いにとって一番良い距離を知ってるのかもしれない。でも……苦しい事だけを避けて距離を置くより、嬉しい事も苦しい事も一緒に在った方が、きっと嬉しいよ」
獣人の少年はそう言って少女の手のひらを兄の手の甲に重ねた。
彼は満面の笑みを湛え、そして目覚めた兄もまた少年に劣らぬ笑顔を彼の最愛の妹に贈る。

「でも、今……あなたの言葉を聞いて、もっと早くみんなを助けれたんだって思ったら、おれ……」
「自分を責めないで。君を……迷わせたのは人間(わたし)達なんだ」
だが、少年が惜しむ事なく兄妹に向けていた優しさの奥には、深い深い哀しみが潜んでた。

「俺達だって生きてる。大切な……人達が居るんです。王っ――助けて下さい、この世界に生きる同志として」
信じたい。ただそれだけの想いで獣人の少年は一人孤独と闘っていた。
歴史が語るのは過去でしかなく、痛みの上に築かれた未来である今は違うのだから、と。

「新王は、歴史に名を残す方となるでしょうね」
「ええ。だけど……私達の知らない歴史の中にこそ知るべき事があった。だから――」
「お、王女、何を……っ」
「――新王、この血は我が国の誓いです。我が国の名に懸けてこの国への支持を誓います。私は国に戻り、両親と共にするべき事をしたいと思います。あなたの供をする事は出来ませんが、この血書をお持ち下さい。……私の気持ち、です」
誇り高き文武の国の王女は知っていた。
最後まで新王の手腕を見届けるまでもなく、自分が何より優先すべき事は他にあるのだと。

「わかるな? お前の代わりを勤めれる者は誰一人として居ないんだ」
「……でも、私にとって……あなたの代わりこそ、誰一人居ない。…………。王のお戻りを、ここでお待ちしています」
誇り高き王女に続き、新王の片翼もまた涙をこらえ自らの役割を受け入れる。
そして――

「今――ここに居られた事に、感謝します」
片手で数えれるだけしかいない歴史の証人。
王の供を果たした少女はあまりにも過酷な真実の重みに押し潰されそうになりながら、それでも真実と向き合った人達の姿に、ここには居ない人達の分も精一杯の笑顔を向け、新王を労わる。

「ねえ、先王のお墓に行ってみない? 前にあそこに行った時……私達、王妃様のお墓の前で祈る事しか出来なかった。でも、今なら……」
王の留守を預かっていた片翼の女性は国への伝達を受け取ったその後、強く瞳で訴えかける。
今の自分達なら偽りの記憶の中に隠された真実を見つけられるかもしれない、と。

「……一人でも行く気ね?」
「ええ。あの方一人に過酷な道は強いらない。そう決めたから」
「私だってあなたを一人にはしない。何より、私だって……そうせずにはいられない」
そうして二人はようやく孤独に眠る王の墓を見つけた。
その日付は紛れもなく……自分達の心を翻弄し続けたもの、自分達の信じ続けたもの、その
哀しくも尊き真実の姿に、彼女らはただ深く祈った。


≪5・欠片の名前≫

「良いんですか? 私……間違ってた」
あの日、少女は自らの犯した罪の深さを嘆いた。

「いつもいつも正しく在れるとでも思ってたのか? そんなの人間も森人も等しく不可能な事だ」
国の歴史と共に歩み続けた森の長は彼女を諭し、願う。

「……残り僅かな魔力だけど、最後にあの子が喜びそうな使い方をしてくれ」
思えば、それからの日々はまるで疾風の如く少女の元を過ぎ去っていった。
それなのに酷く酷く、長く感じられた瞬間。

「――あなたを、許します」
「…………っ」
謝れない事さえ、彼女に与えられた罰の一つであった。
しかし、あの城下を力の限り駆けて行った彼女の姿に、彼はかつての過ちの意味を悟り、生涯胸に仕舞い続ける想いを誓ったのだ。だからこそ――

「今まで……魔力を保ってくれてありがとう」
少女は柔らかな日差しの中、ようやく叶えられた“あの子が喜びそうな使い方”をしてみせた。

「でも、この聖域を離れて……本当に良いの?」
「うん。人が変わろうとしてる事を君が教えてくれた。だけど、人が変わるだけじゃ駄目だ。私達も変わっていかないと……」
「そんな……森人はいつだって私達を許してくれたよ」
「けど……だから、私達は怒る事を知らないといけないんだと思う」
それぞれに欠けたものを補う術を、それぞれに諦め続けた。
決して交わる事はない道なのだからと。
そういった意味で考えれば、少女と青年を引き合わせた縁もまた世界の願いの一欠片であったのかもしれない。


――王は、確かに居た。
振り返るにはあまりにも痛々しく、歩み出すにはあまりにも切なく険しい道のり。
それでも――動いてゆく日々の中に、共に在るべき人の温もりを見つけたから。

「さよなら、知られない王。でも私達が歌い継ぐ。例え王でなくても、あなたの高貴な心は偉大な王のそれだもの」

――薄青い空の、始まるような朝。
子羊達は、この世界に遺された一番古い古い物語を――バタンと、閉じた。